信楽まちなか芸術祭2010

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信楽探訪 : 信楽まちなか芸術祭

信楽探訪

大物づくりの伝統

信楽は古来より良質の陶土が多く産出される地域でした。

これは「古琵琶湖」と呼ばれる古代の琵琶湖がこの地に存在したことと深く関係しています。この古代の湖の堆積層が後に良質の陶土となり、今日まで続く信楽焼の歴史を支えてきたのです。

 

 信楽の陶土は、木節(きぶし)粘土、蛙目(がいろめ)粘土、実土(みづち)粘土の3種類に分けられます。これらは独特の荒い土肌や火色を生み出します。また、耐火性に富み可塑性(粘り)に優れているため成形しやすく、特に大物づくりに適しています。

 

陶土の特性を活かし、江戸時代から高さが1メートルを超える大壷や直径1~1.5メートルの火鉢のほか植木鉢、灯籠、庭園陶器など数々の大物陶器が焼かれてきました。また昭和38年には、長さ3メートル、幅65センチ、厚み2センチの大きな陶製の板に絵付装飾を施し、水平を保ったまま焼成する技術が開発されました。この技術によって大型美術陶板、建築用陶板、テラコッタなど新たな信楽焼ブランドといえる製品が数多く生まれました。

 

 陶器店の軒先に並ぶ大狸にも大物陶器産地としての歴史と伝統が息づいています。

(10.05.27)

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狸の八相縁起

けものへんに里と書いて狸。

 

古来より狸は人里近くに生息し、山と野、夜と昼で人間とうまく棲み分けながら共存してきました。タヌキ寝入り、タヌキ親父・・・どこか憎めない愛らしい狸の姿が伝わるこれらの言い回しが数多く残っていることも、人間と狸のかかわりの深さを物語っています。

 

 信楽焼の狸は、その愛嬌のある表情とともに福を呼ぶ縁起物として多くの人々に愛されてきました。徳利と通帳を持ち、笠を被った独特の姿かたちは「八相縁起」と呼ばれる縁起をあらわしています。

 

笑顔・・・お互いに愛想よく

大きな目・・・周囲を見渡し、気を配り正しい判断ができるように

笠・・・思いがけない災難を避けるため、普段から準備

大きなお腹・・・冷静さと大胆さを持ち合わせよう

徳利・・・人徳を身につけよう

通い帳・・・信用が第一です

金袋・・・ずばり金運

太いしっぽ・・・何事もしっかりした終わりを!

(10.05. 6)

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屋号と窯印

信楽のまちなかにある窯元や陶器店には、代々受け継がれた「屋号」がついています。「屋号」とは、窯元や陶器店が営業上使用する呼び名(商号)のことです。

 

江戸から明治時代まで、窯元の屋号は本名を使ってつけられ、その家の称号といえるものでした。(例:分六窯、中左衛門窯、利助窯など) 大正から昭和にかけて、屋号は「丸・・・」「カネ・・・」「山・・・」など記号と文字を組み合わせた略称になり、窯元や陶器店の商号とされました。

 

一方、「窯印」はやきものや窯道具に刻印や刻字で入れる目印のことで、共同窯で作った場合に作者・注文主を識別するために施したものです。屋号はそのまま窯印として使用されました。中世はへら書きで壷などに×、三、一、○などの窯印をつけていましたが、江戸時代に入って陶印を使うようになりました。

 

今も、やきものはもちろんのこと、看板や窯道具、トラック、陶器工場の煙突などにマークとして屋号が描かれており、まちなかの到るところで目にすることができます。信楽では、姓名を呼ぶよりわかりやすい呼び名として、現在でも屋号が使われています。

(10.04.23)

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日本茶発祥の地――朝宮

信楽の朝宮地区は、日本五大銘茶に数えられる「朝宮茶」の産地として知られています。朝宮茶の歴史は古く、平安時代に天台宗の開祖・最澄が唐より茶の種子を持ち帰り近江の地・坂本と朝宮に蒔いたとされる日本茶の起源までさかのぼります。日本茶発祥当時から1200年以上の伝統を受け継ぐ茶産地として今日に至ります。

 

朝宮茶は、独特の香りとコクのある味が特徴で、「香り朝宮」と呼ばれています。一日の気温差が大きく霧が発生しやすい山間地特有の自然条件とともに、澄んだ空気や清らかな水などの豊かな自然によって、緑茶の最高峰とも言われる高い品質が生まれます。

 

俳聖・松尾芭蕉は、朝宮の茶園をモチーフにして「木が暮れて茶摘みも聞くやほととぎす」という句を残しました。これは「茶畑の茶の木に隠れて見えないが、今鳴いたほととぎすの声を茶摘み娘も聞いたであろうか」という意味で、新芽の出た茶畑に春を告げるほととぎすの鳴き声が響きわたっている情景を詠んだものです。朝宮の岩谷山仙禅寺には、この句碑が建立されています。

 

信楽の中心部から車で走ること10分   朝宮地区に入ると、陶器店が立ち並ぶ陶器産地の町並みから山あいに茶畑が広がる茶産地へと、景色は一変します。昔から変わらぬ風景とそこで生まれる香り高い朝宮茶は、訪れる人々の郷愁を誘い、ひとときの寛ぎをもたらしています。

朝宮茶.JPG

(10.04.16)

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信楽の窯

紀元前8000年、縄文式土器から日本の土器時代が始まりました。続いて、弥生式土器・埴輪(はにわ)、土師器(はじき)と進化していき、これらは窯を使用しない『野焼』で作られていました。

 

5世紀末には渡来人によって朝鮮式土器が伝わり、日本各地で土器が焼かれました。この土器のことを『須恵器』と呼んでいます。須恵器は、山腹にトンネル状の穴を掘り、そこにやきものを入れて焼く『穴窯』が使用されていました。

 

そして江戸時代初期になると、穴窯に比べて大物が焼け、多量に仕組んで一度に焼けるなどの特徴を持つ『登り窯』が信楽に伝わりました。この時代は、庶民生活が向上し日常必需品としてのやきものが大量に求められていたため、登り窯を使用する必要があったとされています。

 

やがて大量の薪を燃料とする登り窯から、重油、灯油、電気、ガスを使用する『平地窯』へと移行していきました。

現在の信楽では、ガス窯、電気窯などの平地窯が主流になっています。

 

 

(10.03. 3)

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やきもの産地の町内名

町名.JPGやきものの生産を盛んに行われてきた地域が「長野地区」一帯です。 この辺りにはやきものにまつわる町内名がいくつも存在します。

 

江戸時代に登り窯を持つ窯元が多数あり、まさに陶を生む町であった 「陶生町」。 焼屋(窯元)が群がっていた町は「焼屋町」。 登り窯の中でも特に大きな窯があったことから町内名になった「大窯町」。 陶器問屋があった「問屋町」。

 

さらに、名工がいた町にはその雅号が町内名になっているケースもあります。 「二本丸」は陶工・奥田伝七郎の雅号「二本丸」がそのまま町内名になりました。 「福島町」は陶工・今井長兵衛の雅号「福島山(信福山)」からその名がつけられています。

 

 「長野地区」は、古い窯跡や陶器工場の煙突などの町並みとともに、その町内名にもやきもの産地の風情を感じることができる地域です。

(10.02.22)

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信楽焼の変遷

信楽で本格的な陶器の製造が行われるようになったのは鎌倉時代中期頃だと言われています。当時は主に生活用品である壷(つぼ)や甕(かめ)、擂鉢(すりばち)などを中心に焼かれていました。

室町・安土桃山時代に流行した茶道では、日用品であった壷などを茶道具に見立てるようになり、信楽焼茶陶の素朴な土味が多くの茶人に愛されました。

江戸時代になると、登り窯の使用によって大量生産が可能となり、その種類は茶壷を中心に水壷、味噌壷、団子鉢、徳利、焼酎瓶、皿類、火鉢など多品種にわたりました。

明治・大正時代には、神仏具、灯具、酒器、硫酸壷、インク瓶、糸取り鍋、火鉢などの生活用品が作られました。中でも火鉢は、信楽焼の代名詞ともいえるほど広まり、昭和30年頃まで主力製品として生産が続きました。

昭和に入ってからは、戦後の昭和天皇の行幸によって一躍有名になった狸の置物を始め、植木鉢、建築陶器の生産が増えていき、近年では庭園陶器、食器、花器などあらゆるものが作られています。

信楽焼は、時代の移り変わりとともにその姿を変え人々の暮らしに深く浸透しながら今日に至っています。

(10.02. 9)

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千年続くやきもの産地

rokkoyou.gif日本のやきものの歴史は古代・縄文時代の土器から始まったといわれています。

 

その後、弥生式土器、土師器、須恵器と発達し、中世・鎌倉時代になるとそれまでより高温で焼いた本格的な陶器が作られるようになりました。

 

 日本には数多くの陶器産地が存在しますが、中世から途絶えずに続く六つの産地を「日本六古窯(にほんろっこよう)」と呼んでいます。

 

備前、丹波、越前、信楽、瀬戸、常滑。

 

 いずれも日本を代表するやきもの産地として、今も多くの人々に愛され続けています。

(10.01.29)

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紫香楽=信楽?

山あいののどかな里・信楽。
天平時代、聖武天皇によってこの地に都が置かれました。
かつてこの地は奈良東大寺にさきがけて大仏の建立が進められ、首都がおかれたことがあります。
幻の都「紫香楽宮」。

shigarakiguushi.jpg
それは、今から1250年前――。
奈良・平城京時代までさかのぼります。

当時、都は奈良・平城京におかれ、文化的には「天平文化」と呼ばれる華やかで国際的な文化が開花した時代でした。その一方で、政治的な対立や反乱が続き、疫病が流行するなど国家としては混乱を極めていました。
そんな都の混乱を避けるように、聖武天皇は行幸を繰り返し、天平17(745)年再び奈良へ戻るまでの間、恭仁・難波・紫香楽の3つの都を転々と移ったといわれています。

2008年、聖武天皇が造営した紫香楽宮の跡とされる宮町遺跡から、日本最古の歌集である万葉集の歌が記された歌木簡が発見され、全国から注目を集めています。
実際にこの地で貴族たちがみやびな歌を詠んでいた事が立証されました。

今でも春になると信楽の山々には山ツツジの紫の花が咲き乱れます。
まさに紫が香る楽園、紫香楽宮であったのかもしれません。


(10.01.15)

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